◇ 藤沢周平に酔う
藤沢周平に酔っている。
藤沢周平に酔い始めてかれこれ15年になる。
最初の1杯ならぬ1読は「三屋清左衛門残日録」で、実に読みやすくスラスラと一気に読めた。
ほんの1杯のつもりが2杯、3杯・・・。
気が付けばコンコンと酔ってしまっていました。
藤沢周平作品の全部を読んだかと問はれれば、約8割と思っている。
どの作品もおもしろい。
ただし、いわゆる歴史もの、市塵・一茶・回天の門・土などは読みづらかった。

写真はいずれも月刊「プレジデント」(プレジデント社)1993年9月号より
藤沢周平に出会う前、山本周五郎にハマっていた時代があった。
たぶん全作品の6割くらいは読んだと思うし、再読、3読した作品もたくさんあった。
藤沢周平作品の江戸下町物が周五郎に似ているなと思ったこともありました。
だんだん周五郎物が読みづらくなった時季があったが、最近また周五郎も読み直している。
周五郎も藤沢周平も主人公に対する目線、立ち位置が同じ。
「周平独言」の中でも藤沢周平さんは、周五郎さんに似ていると言われることに抵抗感を感じていないし、むしろ近親感を抱いていたのではないかと思う。
藤沢周平の魅力というのは誰もが認めるように、
〇 男の友情
〇 風景描写
〇 女性の可愛さ
〇 食べ物の美味さ
〇 剣術のリアルさ
〇 ユーモア
そして肩のこらないミステリーもの等など。
そして全体に文章の分かりやすさと美しさ。
私は特に風景描写がたまらない。
藤沢周平の描写は光(闇も含めて)の使い方がうまい。
必ずと言ってよいほど、日が差す部分とその陰、その濃淡。
そして逆に月明かりと暗闇の使い方。
これで読み手は、かつて自分が子供のころ見た何かの風景に投影してその情景をイメージするのでしょう。
しかしその情景は現在の風景しか見たことのない人には、なかなかイメージしづらいのではないかと思う。
月明かりだけの風景などは、今はなかなか経験できない。
藤沢周平の作品が映画化やテレビドラマ化されましたが、私は観たことがない。
それは周平作品の風景も女性も食べ物も、それぞれ読者が自分の風景や、女性や味を独自に持っていて、それが壊されるような気持ちになるからだろう。
高校時代ウィリアム・H・ハドスンの「緑の館」を読んで、主人公の野生の神秘的美少女リマに憧れた。
それが映画化されてオードリー・ヘップバーンが美少女リマ役だった。
私はいっぺんにガッカリした。
いくらヘップバーンが美人でも私の抱くリマとはかけ離れていたからです。
もちろん映画も観ていない。
同じようなことが周平作品の映像化にも言える。
読者がイメージを膨らませて読むものは、そのイメージを大事にしています。
決闘の場面も自分なりのシーンを頭の中で作っていたら、それと違う太刀捌きにはなじめません。
そう言うものは映像化がむつかしいと思います。
私のような偏った藤沢周平ファンには、周平さんの人気があることを喜ぶ反面、映像化で壊れたものを通して周平ファンになって欲しくないなんて、スネたところもあります。
藤沢周平のお別れで、同郷の井上ひさしさんと丸谷才一さんが弔辞を読まれたと聞いていますが、一体どんなことを言われたのかぜひ知りたいところです。
追記:弔辞の件は「残実録」の横山様に、「藤沢周平のすべて」文春文庫に載っていると教えていただきました。
私が想像したものとは全然違っておりましたが、それぞれに周平作品についての深い理解にあふれたものでした。
私が藤沢周平にのめり込むきっかけになった小説。
それまで山本周五郎を、ほぼ一通り読んでいたところに、すっと入ってきた。
本書は、出世した男が引退してからの物語である。 隠居前の役職は藩の用人だから、現在の会社で言えば秘書課長と言うところだろうか。
立場上、家老や重役達とも頻繁に接触し、また藩主の直接相談相手にもなる激職にいた。
その職を離れ、家督も息子に譲ると、当然のごとくたずねてくる客人もいなくなって、さてこれから日々どうやって過ごそうかと言うところから物語が始まる。
日々の出来事、ちょっとした事件、旧友との思わぬ再会、短編15編を繋いだ物語。
老いるとはどういうことなのか。
今までの喧騒な社会から離れて後の心の変わりようなどなど、別の立場で社会とかかわっていく中で、個人の「残日」の気持ちの置き場所を教えてくれる。
以降、藤沢周平の作品はあらまし読んだ。
ファンとしてそれなりの自負も持っている。
しかし世の中には私以上に深く、重いファンがたくさんいらっしゃることもわかってきました。
今の夢は、周平(本名小菅留治)の故郷、山形県庄内地方を歩いてみたいということ。
鶴岡市に「藤沢周平記念館」が出来るそうだから、そこで周平さんが日常使っていた物や、ナマ原稿を見てみたいと思っています。
私は友人から退職の通知をもらうたびにこの本、〔三屋清左衛門残日録〕を贈っています。
世間一般にいわれる、いわゆる海坂藩ものはどれも何度も読み返しています。
〔雪明り〕
はいいですね。
芳賀菊四郎が「いまなら跳べる」と思う瞬間がいい。
江戸、深川を舞台にした、いわゆる市井ものにも、しみじみとしたすばらしい作品がいっぱいある。
同じ視点で、同じ人情ものでも山本周五郎を読むと、なにか説教されてるような感じを受けることがある。
〔獄医立花登手控えシリーズ〕
もおもしろい。田舎から叔父を頼って田舎から出て来て、のん兵衛の叔父の代理で獄医として勤め、世間の裏や、温かい人情を知りながら成長していく様子が、楽しく読める。
『半生の記』
本書は標題で察せられるように、小説ではなくて自伝になっている。
周平は以前から自伝は書くつもりはないと言っていたのだが、ふと自分がどうして作家になどなったのか、ふりかえってみてもすぐにはそれがわからないので、そのことを多少とも炙り出そうとしてこの『半生の記』を書いたという。
ここで藤沢周平は自分の生い立ちを丁寧にたどってゆく。
人間小菅留治も作家藤沢周平のこともわかる周平ファン必読の書。
文春文庫、〔玄鳥〕の後ろ解説で、作家、中野孝次氏が私の気持ちを代弁してくれている。
最後の方を一部引用させて頂く。
・・・前略・・・
「これを一言でいえば、藤沢周平はかつてあった日本と 日本人の美しい面を描きだす作家だということになる。
だれも昔の日本がどうであったか知るはずはないが、藤沢周平は小説家の特権によって想像力でそれを作りだし、これが私の信ずるわれわれの先祖だと示す。
それが読む者の心をとらえ動かすのは、まさにここに描かれたものこそ現代に最も欠けているものだからだろう。
たとえば女性像一つをとっても、その心根の勁さ、慎しみ、自制心思いやりの深さ、けなげさは、われわれが日常見ることあまりに少ないもので、凛たる気品をたたえたその姿に惹かれないわけにはいかないのである。
新渡戸稲造はその著『武士道』の中で、かつての士にとって最も重んじられたのは廉恥心であったとし、こう言っている。
武士道の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思想、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。
廉恥心は少年の教育において養成せらるべき最初の徳の一つであった。
虚言遁辞はともに卑怯と看做された。
こういうかつての武士をささえた精神的支柱は、その基本的骨骼をそのまま藤沢周平の世界に見ることができる。
彼らは人間的欠陥にみちているが、欠陥にもかかわらず肝心の面は実に清々しく、凛としている。
われわれは藤沢周平の描いた人物たちの幾人かを、まざまざと目に思い浮かべ、彼らを支える倫理的骨骼のみごとさを嘆賞せずにはいられない。
とともに、何度もいうようだが、そこに流れる男と男の友情、男と女の抑制された慕情の美しさに、われわれは今に失われたものを見、憧れをもって眺めずにはいられない。
この世界の人情のよさ、自然の美しさ、それを感じれば、ああここに美しい日本があると言わざるを得ないのだ。」
・・・・後略。
気持ちの代弁ということでは、高橋敏夫著の 『藤沢周平 ―負を生きる物語』 (集英社新書)には共感部分がたくさんあって、付箋を一杯貼ってしまった。
佐高 信さんの 『司馬遼太郎と藤沢周平』(光文社)は言論、出版業界の一種のタブー的な司馬遼太郎批判をしていて、佐高さんらしい痛快さがあり、何度も読み返した。
これを読んでも司馬さんと藤沢さんは両端に位置していたように思う。
〔風の果て〕
「風の果て」という藤沢周平さんの長編小説がNHKのドラマになりました。
あらすじ; 「風の果て」は軽輩の子である上村隼太が首席家老・桑山又左衛門となったところから始まる。
この桑山又左衛門が昔の道場仲間の野瀬市之丞から果し合いを申し込まれ、その果し合いに向かうまでの間に、昔のことを回想するというかたちで進んでいきます。
これは舞台設定は江戸時代の貧しい小藩になっていますが、舞台を現代に置き換えて企業小説と見てもまったく同じ物語になりそうです。
それだけいつの時代も変わらぬ、普遍性をもったテーマ。
五人のかつての道場仲間との出世争い。
そこには異例とでも言うべき、出世をした桑山又左衛門のスタートになった不毛の地 「大蔵が原」の開墾。
五人の中で唯一、筆頭家老の息子というエリートで将来を約束された杉山忠兵衛との確執。
出世争いを縦軸に、青春時代の道場仲間を横軸にして物語が展開します。
主人公桑山又左衛門は清廉で不正を嫌い、誠実に日々を送ります。
反面、権力者の小気味よさ、その魔力を充分に知り、出世のためのある種の策謀を巡らすことも厭わない。
藤沢周平さんはこういうタイプが嫌いなはずなのに、なぜか桑山又左衛門をハッピーエンドで終わらせます。
まるで自分がそういう人間になれなかったのを悔やむかのように・・・。
この小説には、いつも蔭の主人公として出てくる藤沢さん好みの女性が全然登場しません。
さらに「海坂の郷土料理」も一切出てきません。
まさに題名から感じる、寒々とした荒れ野に吹き通る木枯らしのような、前編、塩辛さを持った作品です。
それになぜか「色」を感じない無色な感じが、藤沢作品の中でも特徴的な気がします。
それだけ逆に藤沢さんのこの作品に対する思い入れを感じるのです。
それでも最初の1ページを読むと、一気に読んでしまう物語の展開に惹きこまれます。
従来の「海坂もの」と色合いが違いますが、匂いはやはり「海坂もの」ですね。
風の果ての原風景
「風の果て」を読むときいつも頭に浮かぶイメージがあります。
藤沢周平さんの「周平独言」(中公文庫)の中に"陸羽東線"という項目があります。
『長い単調な汽車旅行だった。苫小牧に出ると海が見えてきたが、しかし空は曇って、やがて雨になった。
だがその長い汽車の旅に、私は少しも飽きなかった。
時々眼をあげると、視野に赤い煉瓦造りの小さな家や、海岸に置き捨てられて、錆びた砲台のように空に 突き出している何かの鋼材、白く波立つ海などが映った。
荒れる海の上を、羽音もなく海鳥が飛びすぎて行った。
その風景の上に、灰色の雲がかぶさり、雲は時どき強い雨を降らせた。
旅をしている、とそのとき私は思った。
私は昼前から汽車に乗っていて、夕方までに函館につけばよかった。
誰にわずらわされることもなく、はじめてみる風景の中を通りすぎていた。
誰も私のことを知らなかった。私もほかのひとのことを、知らなかった。
私は一人で、窓の外の風景とつながっているだけだった』
この車窓からの風景に私は「大蔵が原」の風景と、主人公桑山又左衛門の来し方、今の主人公の心の中の風景を感じます。
周平さんが、風の果てを書くとき、このときの長い単調な汽車旅行の風景を、きっと思い出していたに違いないと私は確信しています。
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