茶の湯を愉しむ




◇ 私の茶道

 茶道
 私の通った高校には茶道部があり、お茶室がありました。
校舎と校舎の間の中庭に、それは建っていました。  
数奇屋造りの建物にも興味があったし、お菓子も欲しかったので、男子の友人5人を誘い茶道部へ入部しました。    
高校1年の6月のことです。


茶道部の顧問の先生は、お寺の住職。    
最初のころは、茶道のなんたるかもわからず、ワイワイ言いながら、盆点前(ぼんてまえ)、割り稽古を教えてもらっていました。    
ところが顧問の先生のお寺では、毎年10月にお茶会を開催していることを知らされ、その年は我が茶道部が席を出すことになりました。   
しかも、男のお点前は珍しいので、君達5人でお点前を披露しなさい・・ということになりました。    


それからというもの毎日、毎日、放課後はお茶室に直行。
気楽に楽しもうと思って茶道部に入ったのに、とんだことになってしまったと思いながらも、日が暮れても練習に励みました。


最後の1週間は、初めて祖父の着物とハカマを着て稽古をしました。   
その頃になると、ドップリと茶道にはまってしまっていました。


茶道部の顧問の先生は姿勢にうるさく、茶杓を持つ手、袱紗(ふくさ)をさばく手つきが悪かったら、手首を扇子でピシリとたたかれます。   


お点前にも、序、破、急の流れが必要です。   
ダラダラと同じスピードで単にゆっくりしていても、見てるほうはたいくつして、お茶もおいしそうには思えなくなります。   


茶筅通しの中にも、序・破・急が。袱紗捌きにも序・破・急を意識してお点前をすれば断然見違えるようになります。   
お道具を持って入るときの歩き方は、お能の歩き方です。
でもそんなふうに教え込まれたので、いまだに舞踊でも、書にしても、線の美しさに目がいきます。    


社会人になって10年間のサラリーマン時代は、転勤もあったりでお茶ができませんでしたが、その後家業を継いでからは本格的に修行しました。    


お流儀は「古儀 藪の内流」。   
流祖は利休さんと親密な交流のあった、藪内剣仲紹智(けんちゅうじょうち)という人。   
お弟子さんが持てるレベルのお免状は頂いておりますが、弟子は一人もおりません。   
家内も、片付いた二人の娘も、お父さん教えて・・とは言ってくれませんでした。   
親鸞上人の「弟子一人ももたずさふらふ」の心境。(意味がちがう!)      


茶道の醍醐味は「茶事」にあると思います。   
茶事の中にあっては、お点前はほんの一部分にすぎません。
戦後の茶道は、未婚女性の行儀作法の見習い学校みたいになって、ただ単にお点前だけで終わりという風潮になってしまいました。   
それはそれでいいのでしょうが、私にはちょっぴり不満があります。  



◇ お茶事の楽しさ

 茶道
 お茶の心は、もてなしの心と言われます。   
招く方(亭主)が、招いたお客様に心をこめて、おもてなしをします。   
お客様をお招きするときは、当然のことながら、お茶室の庭の木の葉や、草の葉を、一枚一枚丁寧に拭きます。
踏み石ももちろん、足袋が濡れないようにふき取ります。   


掛け軸や茶碗といったお道具は、その日のテーマに合わせたり、お客様の好みを考えながら、組み立てていきます。   


約4時間ほどのお茶事を、何日もかけて準備をします。
これも楽しみのひとつです。   
お招きしたお客様との、心の通い合ったひと時を持ちたいために、すべてがあります。   
そのひとときを演出するための装置として、茶道の茶事では静寂の中での釜の中の湯の沸く音、袱紗(ふくさ)をさばいて2cmほど落とす音、亭主が蹲(つくばい)の水をあらためる音、 などもあります。    


お茶は総合芸術といわれますが、亭主は演出家です。
しかも音響係り、照明係り、道具係り、そして演ずる役者であったり、監督であったり、すべてをきりもりします。   


お茶事にかぎらず、人をもてなすときの心構えは、お煎茶でも、紅茶でもコーヒーでも 同じことが言えると思います。
  お客としてお招きするかたと、楽しいひとときを持ちたいと、心をこめて準備をします。   
そこには、亭主が力を入れた、または頭をひねった工夫があります。   


ゲストとして招かれる方は、きょうの席にはどんな趣向が仕組まれているのかと、ワクワクしながらやってきます。   
亭主としてはワクワクしながら来てもらわないと、頭をひねった意味がないのです。   
それが、道具のひとつなのか、なかなか手に入らないお茶なのか、お菓子にワクワクしてもらうのか、食事なのか。   


亭主の期待するところで、ゲストが無反応であったり、期待通りの驚きと喜びをしてくれないと、ガックリします。   
そこが、招かれる側のマナーです。
ある種のほめ上手がその場を楽しくします。   
そういった意味では、ある程度美意識が共通していたり、その分野でのレベルが同じ水準であることが必要かな、と思います。



◇ 「南方録」について

茶道 「南方録」という茶道を志す人たちの教科書的な本があります。
利休さんのお弟子さん、というか秘書的役割を勤めた、南坊宗啓が利休の日々の行動や話したことを記録したものです。


この書物から「南坊流」が生れたことは、下記の歴史の項に書いております。
これを読むと利休が日頃お茶をどのように考え、行動したかよくわかります。


利休さんのめざしたお茶の道が大変厳しいものだったことが偲ばれます。
南坊禄を読んで国宝の「待庵」など、利休さんの手がけたといわれるお茶室をみると、背筋がぞくっとする厳しさが伝わってきます。   


◇『南方録』を読む


茶道は窮屈なものです。
でもその窮屈な決まりごとのなかに、自由な伸びやかさがあり、その窮屈な時間と空間の中で遊ぶ楽しさがたまらなく楽しいものです。    
しかし茶道は今や女性の世界になってしまった感があります。
大寄せの茶会では、一席4~50人の中で男性は一人もいないという状態です。   
まあ、大寄せの集団の中で、お薄茶を一服頂いても心に残るものはありませんが・・・。   


最近の私は、一碗に濃茶用のお抹茶を二人分ほど入れて練り、一人静かに飲むのが最高においしいと思うようになりました。   
歳を重ねるごとに、ちょっとヘンクツになったのでしょうか?  


茶道のいわゆる数奇者といわれる人々は、垂涎の名品、珍品を集めて茶会を開きました。   
明治時代は三井の大番頭といわれた三井物産の創立者、益田呑翁のような大数寄者が数多く現れ、維新の混乱で市場に出てきた大名の名品を蒐集しています。   
また、朝日新聞創設者、村山龍平氏(香雪美術館)や吉兆の創業者、湯木貞一氏(湯木美術館)も大数寄者といえます。
(湯木美術館の写真集「白吉兆」には名品が載っています)    


お床の掛け軸には大徳寺の和尚の書や、禅語が好んでかけられます。   
お茶の世界では有名書家の軸とか、有名日本画の絵画などは好まれません。というか使いません。   
独自の美意識があります。
この独自の美意識を作ったのは、利休さんや古田織部まで、さかのぼると思います。   
この美意識の中で自分流の美意識を持つことが大事ですし、楽しみでもあります。   


私としては禅語ばかりにこだわることなく、自分の言葉を軸にしてみるのがおもしろいと思うのですが、利休はそういう俗人の軸を掛けることを戒めています。   
せいぜい、茶杓(ちゃしゃく)を作る程度です。



◇ 侘び(わび)・寂び(さび)

茶道 侘び(わび)・寂び(さび)を日本語大辞典で見ると、
【侘び】:物質的な享楽を捨てて、簡素、静寂のうちに精神の清純さを求める境地。   
落ち着いたさびしい感じ。   
【寂び】:古びて閑雅なこと。       
  元来は中世の代表的美の理念、幽玄の発展として形成された美意識。   
つまり侘びと寂びとはまったく違う次元とでも言うんでしょうか。      
侘びとは、侘しいで表現される物質的には何もない状態。   寂びとは美意識の問題。   
利休さんはそれを同じ入れ物に入れました。   


利休が活躍する当時は、お茶は特権階級がそれぞれ自慢の唐物茶器を見せ合うものでした。   
利休はそれを、寂びという美意識を使って和物でも、日常雑器でも、その席に合うものなら使えるようにしました。   


そして侘びという概念で、侘しいものつまり経済的にゆとりがなく、茶道具のひとつも持てない者でもお茶が飲める。   
茶道を志す者は貴賎、貧富を問わず同列に扱う、そういう対等平等の精神だったのではないかと思います。   


それがニジリグチに表れ、天井の低い、荒壁のままの茶室だったのでしょう。   
そのよき最大の理解者が豊臣秀吉でした。
秀吉は侘びの精神で北野代茶会を開催しました。   
今の茶道には侘びの心が?と思います。   
(それはお前の心に侘びの精神がないからだ・・・)ごもっとも・・・



◇ 茶道の歴史と流派

茶道 日本のお茶の祖と呼ばれるのは禅宗、臨済宗の始祖「栄西禅師」です。    
宗の抹茶文化を紹介した「喫茶養生記」や、お茶の種を持ち帰り、お茶の栽培にも尽くしました。    


茶道の祖といえば村田珠光でしょう。    
室町時代の中期、東山文化が華美になり、闘茶と言われるゲームや、唐物といわれる、珍品名品を自慢し競う時代でした。
そういう貴族の者だけの茶の湯を、四畳半の茶室。唐物に対する和物を使用して、すさんだ精神を正そうとしたのでしょう。


そしてその精神的支柱に「禅」という思想、心を加味しました。それを室町後期に商人の町、堺で流儀とか道というものに確立していったのが「武野紹鴎」(たけのじょうおう)です。   


紹鴎は日用品の器を茶器として使用しました。
「侘び茶」の原点です。   
さらにその弟子利休がこの考えを発展させ、独特の美意識で茶道の理念を確立しました。   


例えば、「釜一つ あれば茶の湯は なるものを 数の道具を もつは愚かな」はよく知られており、当時の社会では新鮮な思想 だったのだと思います。    


とはいっても、茶道の普及には、時の権力者に依存せざるをえませんでした。   
堺の商人の力を利用していた信長は、利休とその茶道をも利用しました。
そこには利休と信長のお互い持ちつ持たれつの 阿吽の関係があったのでしょう。   


さらに、豊臣秀吉が、茶頭八人衆などを定めて千利休を重用しまた。   
天下統一に茶道が利用されたとも言えそうです。    
そのほか利休と親交の深かった、細川三斎、古田織部、といった武人達も茶道の普及に尽力しています。    
一方、武野紹鴎の弟子であった藪内紹智は、商人文化とは一線を画し、書院点前の形態を維持したようです。   


この流れは、以後、西本願寺が庇護し続けました。   
当然ながら、今も、この系譜は持続していて藪の内流は北陸地方でお弟子さんが多い。   
また毎年夏に全国からお弟子さんが集まって開く夏季講習は、本願寺さんの施設で行われます。   


江戸時代初期になって、少庵の子、利休の孫に当たる千宗旦が、本格的に茶の湯再興に成功します。   
といっても、華やかな ものではなく、本来の佗ぴ茶に徹したようです。   


そして、この「宗旦流」が、宗旦の三人の息子によって、三流派に分かれることになります。   
・次男で、早くから独立していた宗守の「武者小路千家」   
・三男、宗室の「表千家」   
・四男、宗左の「裏千家」   
さらに、宗旦の高弟で、四天王と呼ばれたうちの一人、山田宗偏の「宗流」や、門人の杉木普斎「普斎流」も隆盛になりました。   


しかし、江戸時代の大名が好んだのは、宗旦流ではなく、利休時代の七哲に繋がるそれぞれの独自路線だったようです。


織田信長の弟、織田有楽が興した「有楽流」もこうした流れと同類と言えます。    
したがって町方の茶道と、武家茶道の2つの流れができてきたわけです。   


武家茶道としては、古田織部の教えが各地に広がっているように見えます。   
ちなみに、藪の内流初代、藪内紹智は古田織部の妹を妻にしています。    
徳川将軍家茶道師範となった、古田織部の門下、小堀遠州の「遠州流」や、「上田宗箇流」、「金森宗和流」も残っています。   


さらに、四代将軍徳川家綱の茶道師範となった、大和小泉藩二代藩主、片桐石州の流派も 「石州流」として、各地に残ってい ます。   
仙台藩主伊達綱村、会津藩主保科正之、松江藩主松平不昧など、熱心だった大名が多く、現在も活動が続いています。  


こうして町方と武家の双方で、茶道も様々な流派が発展してきたことがわかります。    
また一方で別の流れがあります。「南坊流」です。南坊とは、千利休の茶道高弟兼秘書の名前ですがが、この本を書き写すことを許されたものが、受け継いだ流派ということのようです。


「南坊流」は、筑前黒田家家臣の立花実山から受け継がれた秘書を伝承している流派ということ。    
そして、この秘伝開放を主張して「茶道講義」を発行し、茶道の奥義の実践普及に努めた人が 明治時代に登場した、田中仙樵(せんしょう)です。
この流派が「大日本茶道学会」になります。    


茶道の流派は多岐、多数あり、正直私も6、7流派しか、お点前は拝見しておりません。   
ひとつの流派のなかに色々派が別れている流派もあります。 さしずめ臨済宗○○派とでもいうようなものでしょうか。
調べただけでも30流派以上あります。



◇ 茶事の流れ

茶道 松江藩主であった松平不昧公は茶人としても有名な人です。
その不昧公が書き遺しています。   


「客の粗相は亭主の粗相なり、亭主の粗相は客の粗相と思うべし、味はふべき事なり、客の心になりて亭主せよ、亭主の心になりて客いたせ」   
つまり、招く客も招かれる客も、お互いに相手の心をいたわりつつ、亭主は客の心を思いやり、客はまた亭主の心をおしはかり、互いに席を盛り立てようとするその心配りこそ、真の茶事の本質であると言えます。   


お客も役を担っているということです。
まさに茶事の本質を表わしています。
茶室の中に充満する心の交流、ある種の心のゲームが茶事だと思います。

お茶事のもっとも基本的な「正午の茶事」の流れを見てみましょう。(炉の場合)



待 合  

寄付き待合⇒茶会に招かれて最初に案内されるとこ ろ。
 ここで席に入るための服装を整え、余分な持ち物は  ここに置きます。
 ここで連客も揃います。
 腰掛け待合⇒亭主の迎え付けを待つところ。

迎え付け

亭主が蹲踞の水を張りかえる音が聞こえたら、間もなく亭主が無言で迎えに現れます。
正客は 決まったところまで出て、右手に扇子をもって無言で挨拶を返します。

蹲踞(つくばい)

席に入る前につくばいで手洗い口をすすぎます。

初入り
(しょいり)

正客を先頭ににじり口からはいります。
まず、お床の床飾りを拝見、お点前をする場所を拝見して、自分の決められた席につきます。
正客の席はたばこ盆が置いてあります。
亭主が入って本日のおこしいただいたお礼と、場合によっては本席の趣旨を話す場合もあります。
正客はお招きいただいた御礼をいいます。

初 炭
(しょずみ)

炭点前があります。
お客は炉を囲み炉の中の炭と香合を拝見します。

懐 石

お料理が運ばれてきます。お酒も出ます。
ここで亭主との語らいがあります。
出された料理は器に残してはいけません。
続いてお菓子が出ます。
お菓子をいただいたらお床と点前座を拝見して、お茶室を退席します。

中立ち

休憩時間のようなもの。
このとき所要を済ませたり、いずまいを直したりして、後座の合図を待ちます。

後入り
(ごいり)

後入りの知らせの銅鑼(どら)がなりますと、再度つくばいを使って初入りと同じようにして席入りをします。

濃 茶
(こいちゃ)

亭主が濃茶の点前をして、濃茶を練ります。
5人くらいの席までは一碗をみんなでまわして頂きます。

後 炭

濃茶が終わると炭を継ぎ足します。

薄 茶
(うすちゃ)

薄茶の点前が始まります。
亭主以外の人が点てる場合が多い。
干菓子を頂き、お薄茶を一人一碗づついただきます。
飲み終わると亭主が本日のお礼の挨拶に出ます。
お客もお礼をいい、お床を再度拝見して退席します。

送り出し

亭主は、にじり口で見送ります。

前礼・後礼

できれば、前日に明日は楽しみに伺いますと、お菓子を持って挨拶に出向くのがよい。  
茶会の翌日、お礼の挨拶に伺えばより念入りなお客となります。
どちらにしても手紙なり、電話なりで前後は挨拶をするのが礼儀でしょう。



◇ お茶席に招かれたときに必要なもの

茶道〇 扇子(流儀の扇子があればなおよし)  
〇 袱紗(ふくさ) 男子用、女子用があります。   
〇 古袱紗(こぶくさ)
  濃茶茶碗を載せてお茶を頂いたり、お道具を拝見するとき
  下に敷く。 
〇 懐紙 男子用、女子用があります    
〇 楊 子    
〇 懐紙入れ    
〇 これらを入れる数奇屋袋があれば便利です。    
〇 残菜入れ(ビニール袋) 白い靴下または替え足袋 ハン  カチ   


◎ 席に入るときは、腕時計や、ネックレスその他の装飾品は、はずしましょう。 (数奇屋袋にでもしまって)きらびやかな物は席には禁物です。



◇ お点前の種類

茶道 お点前は茶事の項でいいましたように、お茶事の中で濃茶を点てる(たてる)とき、薄茶を点てるとき、それと炭点前です。
したがって、お点前の稽古といえば、濃茶、薄茶のふたつ。 それと炭点前。   

ところが薄茶のお点前にしても、お道具によっていろいろ違ってきます。   
季節によって違うのが炉か風呂かです。   
棚によっても違ってきます。
茶碗によっても、茶入れによっても違ってきますし炉の切ってある位置によってもまったく違ってきます。   


隅炉の逆勝手などという炉の切り方もあるようですし、これは一体どんなお点前になるのか・・・。   
私はこのお点前をしたことはありません。   


とにかく薄茶にも何十通りかのお点前があります。
多分どのお流儀でもそうだと思います。   
濃茶も同じです。   
お点前はある種の舞台に上がった演者です。   
お点前を拝見しているお客が「気持ちのよい、いいお点前ですね」と言ってもらえるには、私はやっぱり背筋と腕から手首のの線。   
そしてお点前の序、破、急が必要です。   
この基本を徹底して稽古した人が、年齢と経験を重ねて、枯れたお点前になると、これもすばらしい味が出ます。



   
お茶が入りましたよ~トップページ      このページの最初へ戻る



copyright (c)茶道 茶の湯の話 All rights reserved.