お茶が入りましたよ:トップ>茶道を愉しむ>『南方録』を読む>6 露地で下駄をはくかわりに利休は雪駄を考案した

<6> 露地で下駄をはくかわりに利休は雪駄を考案した。


    露地の出入りハ、客も亭主もゲタヲハクコト、紹鴎ノ定メ也、草木ノ露フカキ所往来スルユエ、
    如是(かくのごとし)、互ニクツノ音、功名不功者ヲキゝシルト云ゝゝ(うんぬん)、カシガマシクナキ
    ヤウニ、又サシアシスルヤウニモナクテ、ヲダヤカニ無心ナルガ功者トシルベシ、得心ノ人ナ
    ラデ批判シガタシ、宗易コノミニテ、コノ比(ごろ)、草履ノウラニ革ヲアテ、セキダトテ、当津
    今市ニテツクラセ、露地に用ラルゝ此事ヲ問申タレは、易ノ云、ゲタハクコト今更アシキニアラズ
    候ヘトモ、鴎ノ茶ニモ、易トモニ三人ナラデ、ゲタヲ踏得タルモノナシト鴎モイハレシ也、
    今、京・堺・奈良ニカケテ、数十人ノスキ者アレトモ、ゲタヲハク功者、ワ僧トモニ五人ナラデナシ、
    コレイツモユヒヲ折コト也、サレバ得道シタル衆ハ云ニ不及(およばざる)コト也、得心ナキ衆ハ、
    先ゝゝ(まずまず)セキダヲハキテ玉ハレカシ、亭坊別而(ていぼうべっして)カシマシサノ物ズキナリ
    ト笑ハレシ、


    【熊倉博士の語訳】


    露地の出入りに、客も亭主も下駄をはくことは、紹鴎が規則として定めたことである。
    草木が露をたっぷりふくんでいるところをゆききするので、このように決めたのだ。
    お互いに下駄の音で熟達の人か未熟な人かをききわけたという。やかましくないように、
    しかしまた抜足差足といった具合でもなく、穏やかに無心に歩くのが熟達の人と知る
    べきである。道の心を十分我がものにした人でなければ判断しがたいことだ。
    宗易(利休)の工夫で最近は草履の裏に革を張った雪駄というものを堺の今市町で
    つくらせ、露地に使っておられる。このことをたずねてみると、宗易は「下駄をはくことが
    今さら悪いというのではないけれども、紹鴎の茶の時代にも私をふくめても三人と、下駄
    を満足にはきこなしたものはいないと紹鴎もいっておられた。今、京都・堺・奈良にかけて
    数十人の数寄者がいるけれども、下駄をはける熟達の人はあなたを含めても五人と
    いないだろう。これはいつもそう思っては指を折って数えてみることだ。だから道を得た
    熟達の人にはいう必要のないことだけれど、まだそこまで達しない人々は、まず雪駄を
    はかれるのがよいだろう。あなたが下駄がよいというのは、ことさらかしましさを物好き
    するようなものだ」といってお笑いになった。

    

    【熊倉博士の解説概略】


    茶の湯では歩く事をいいかげんに考えなかった。江戸時代の書に、歩き方で年齢まで
    わかる。


    利休さんの話だけでは熟達のひとの歩き方とはどういうものなのか、本当にそんな歩き方が
    あるのだろうかと、信じられない気持ちでしたが、熊倉先生の解説を読むと、半分ぐらい
    理解が進みました。


    


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