お茶の思い出
『お茶が入りましたよ~』という言葉に、私は強い思い入れがあります。
私が小学校のころ、当時父は家具職人でした。
2人ほどの職人さんと2、3人のお弟子さんを抱えて、我が家のとなりの作業場で茶箪笥、卓袱台(ちゃぶだい)、座敷机などを作っていました。
当時は電動工具のないころで、ノミ、カンナ、ノコギリなどがその用途に応じて何種類、何十種類と並んでいました。
3時になると『お茶が入りましたよ~』と言って、母が母屋からお茶とおやつを持って来ます。
父はウンともスンともいわず、それから5、6分して作業服についたカンナ屑やノコ屑
をパンパンとはたきながらお茶の前にやって来る。
そしてみんなで、タタミ半分ほどの木製机をかこみます。
お茶はヤカンの中に番茶の葉っぱを入れてそのまま沸かしたものです。
私も母の手伝いで、このあつあつのヤカンをよく運びました。
そして父たちに混ざって一緒にお茶を飲みます。
昭和30年代のいなかのオヤツは、たいてい小さなセンベイとか、炒ったソラマメ。
たまには果物やパンやまんじゅうが出ます。
みんな熱いお茶をズーズーと音をたてながら飲む。
私も小さな両手で抱えるように持って、ふうふうしながらズーズー。
聞くとはなく耳に入るのは父の仕事の自慢話、道具のはなし。
まわりの職人さんたちからは、きのう行った釣りのはなし、山でとれる山菜の話しやら、野球、相撲から事件や事故、政治のはなしまで、その場その場でころころ変わりながら話はつきない。
やがてヤカンのお茶もとぼしくなくなったころ一服の休憩が終わります。
お茶が好きなお祖父さん
そのころは70歳をすぎた祖父も元気でした。
離れで暮らしていた祖父のところに近所のおじいさんたちがやってくると、お茶をだすことを知っている私は祖父の声に聞き耳をたてます。
しばらくすると『おーい、お茶がはいったよ~』と、私を呼ぶ祖父の声。
お客のおじいさんたちと鉄瓶のかかった長火鉢の前に座ります。
祖父はもっぱらお煎茶でした。
茶入れから煎茶を、すす竹の茶合(さごう)に取り出し急須にいれてお湯をそそぐ。
小さな備前焼の茶碗に子供でも一口で飲める程度しか、そそいでくれない。
くいっと飲んで盆にもどすと、すかさず祖父がまた入れてくれる。
シブ味が口いっぱいにひろがる。歯ぐきにしみるようなシブ味です。
でもそのなかになんとなく甘味を子供心にも感じていました。
そしてお菓子をパクリ。
高校~そして今
こうして、お菓子とお茶のどちらが好きなのかわからないうちにお茶に親しんできました。
それが嵩じて高校時代は「茶道」にのめりこみ、お抹茶の味の深さを知りました。
大学にはいってからは、お茶という言葉の中にコーヒーや紅茶も含まれるようになりましたが、私にとって『お茶がはいったよ~』という言葉は、今している作業や思考を中断して、別の世界に入っていく合図の言葉なのです。
今でも妻から『お茶が入りましたよ~』といわれたら、その時点から私は別の世界に入ります。
お茶をするというのは、単にお茶をのむ行為だけではありません。
心が無重力になる時間すべてがお茶をするということなのです。
お茶をのむことは肉体的な健康をたもつこと以外に、心の健康を維持する大きな役割があるように思います。
人間の持ち時間
人にはそれぞれ自分の「持ち時間」があります。
私の持ち時間があといくら残っているか、それはわかりませんが、確実に減っていることは断言できます。
そう、あなたの持ち時間も確実に少なくなりつつあります。(いやなこと言うな!)
「一升瓶の五合」というはなしがあります。
一升瓶の中に入っている五合のお酒が、「もう五合しかない」と思うか、 「まだ五合ある」と思うか。
もう五合しかないと思って、今までに飲んだ(浪費した)五合を悔やむか、よく飲んだと思ったのにまだ五合しか飲んでない、まだ残り五合を楽しめる。と思うか。
これからはやはり後者の考えにたったほうが、心にゆとりがうまれることは確かでしょう。
しかし人間、性分というやっかいなものがあって、前者の考えを後者の考えに転換するのはむつかしいことですが、『お茶がはいったよー』と言われたとたん別の世界に入っていける。
これは私のような趣味も道楽も持ち合わせていない者にとっては、たいへん便利です。
聖書の言葉?
作家の遠藤周作が、エッセーのなかでこんなことを書いています。
「明日のことを思いわずらうなかれ」もちろんこれは言うまでもなく聖書の言葉である。
このあとに次の言葉がつく、「今日のことは今日にて足れり」 しかし私が好きなのは次のトルコの格言である。
「明日できることを、今日するな」
私は時折にこの言葉を自らに言いきかせるのは、今日できる原稿も明日にのばそうとする怠け心が働くときである。
しかし本来はこの言葉、怠けろという意味ではなく、今日の仕事をやり終えたならばそのあとは愉快に遊べ、愉快に人生をたのしめ。
明日の仕事までガツガツ、今日のうちにやるような奴は結局出世はしても人間として、人生として損なのだ、という意味なのだろう。
「明日のことを思いわずらうなかれ」も、「明日できることを今日するな」も、日本の諺には決してない。
「先んずれば人を制す」とか、「先手必勝」のような格言のほうが、アクセク蟻のように働く日本人生活向きな格言なのかもしれない。
小学校の時、先生が予習は復習にまさる、と言われたのを憶えているが、トルコのほうでは、そうは決して言わないだろう。
アクセク時代はついに終わったのだ。
今こそ生活のために生きるのをやめて、人生のために生きよう。
明日できることを今日するな、と心に呟(つぶや)こう。
トルコ人のような考え方もまんざら悪くないではないか。
遠藤周作 「勇気ある言葉」より
せめてお茶を飲みながら一服して、まだ五合も楽しめると思うことにしましょう。
あくせく時代は終わったのですから。
お茶が入りましたよ~ 